【企業様インタビュー】株式会社パン・アキモト~Vol.1~ 国内外の災害支援に繋がる非常食「救缶鳥」誕生秘話
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国内外の災害支援に繋がる非常食「救缶鳥Jr.」を購入したことがある方はいらっしゃるでしょうか?
今回は、その「救缶鳥Jr.」を販売している株式会社パン・アキモトの専務取締役、秋元信彦様にインタビューさせていただきました!
Q1. 株式会社パン・アキモトの事業内容についてお聞かせください。
株式会社パン・アキモトは、昨年12月に創業75年目を迎えた栃木の田舎のパン屋で、創業させたのは私の祖父「秋元健二」です。
祖父は戦時中、大日本航空(今のJAL)で国際線の通信士を行っていた時に、墜落事故で全身やけどをして身体障がい者になりました。戦後、地元の栃木に戻り、戦後は食糧難であった事もあり「食品に携わりたい」と思い、杉並区にあるパン屋に一週間の丁稚奉公をした後、立ち上げたのが今のパン・アキモトです。現在、直営店は2店舗運営。那須にアウトレットがあり、その中にもパン屋があります。ベトナムのダナンというところにも、パン屋を出しました。
パンの缶詰を開発したきっかけは、1995年の阪神・淡路大震災でした。パン屋は早起きで、社員は会社には3時に出勤しています。朝5時くらいに兵庫県で大きな地震があったというニュース聞き、時間が経つごとに、被害状況が分かってきました。祖父も父もクリスチャンということもあり、神戸に知り合いが多かったのですが、連絡が全く取れない状況でした。
そこで、なにが出来るかを考えたときに、「パンを送ろう」と考えました。那須から宇都宮まで、トラックでパンを約2,000個を運び、宇都宮から鎌倉までは教会の牧師先生が運び、鎌倉から京都までは別の牧師先生に運んでもらいました。
中1日半で、現地にパンを届けられることができました。しかし、アキモトの一部のパンは食する前にダメになってしまったと言われました。アキモトのパンは、防腐剤等を入れずに製造したパンだったため、日持ちがしません。食されたパンはあったが、避難所である教会で見たのは、「次の人のために、取っておこう」という日本人的な他者を思いやる考えでした。
ある年配の女性に言われた言葉は、「乾パンのように保存性があり、菓子パンのように、おいしくて柔らかいパンを製造できないか」というリクエストでした。うちの社長は、真っ先に「無理です」と回答。水分を減らしたほうが日持ちはしますが、パンのしっとりさとは、相反することだったからです。その後も、「あのパン、どうなった」と聞かれるので、 工場の片隅で、社長が細々と開発を始めました。
まず、最初に取り組んだのが冷凍保存で、当時の技術では、ベチャベチャになってしまいました。次に取り組んだのが真空パックで、布団真空パックにように作ったが、開けてもペシャンコのままで、元に戻らず……。地元の農産加工場に行ったときに、たまたま缶詰を作る機械を見つけ、それを見て、焼いたパンを缶詰に詰めてみることにしました。数日後、缶を開けてビックリ、カビだらけ。うまく殺菌ができていませんでした。いろいろ考えているなか、パン生地を缶に入れ缶ごとオーブンで焼く事で「缶」を「熱殺菌」出来ることを思いつきました。うまくいったので、日本、米国、中国、台湾の四カ国で製法特許を取得。パンの缶詰を開発できたが、最初は、とにかく売れることはありませんでした。
売れるキッカケとなったのは、2004年に起きた、新潟県中越地震でした。阪神大震災の時は長期保存できる商品が無く、焼き立てパンを持っていき、パンの缶詰の開発のきっかけとなりました。新潟県中越地震の時には、既にパンの缶詰が開発していたことで、栃木から新潟まで直線距離100kmくらいでしたので、会社にあったパンの缶詰を運びました。また、備蓄している自治体からも善意で被災地へ送ってもらうことにしました。
送った商品が、たまたま防災対策本部の後ろに山積みになっていました。メディアが撮影する時に、パンの缶詰の山積みが、ニュースで放映されました。あさま山荘事件で、警察官がすすっていたカップヌードルが有名になったように、パンの缶詰もメディアの放送で全国に広がっていきました。
そこから全国から注文が続くようになり、出荷3か月待ちになり、沖縄に第二工場もつくりました。
Q2. 救缶鳥プロジェクトを始めた経緯についてお聞かせください。
中越地震の後、スマトラ島沖地震が起きたときに、スリランカにいた知人から、パンの缶詰の大量リクエストがありました。
日本ではフル生産状態でも納期に間に合わない状態だったが、現地からは、「食べるものがない。中古でもいいから、スリランカに送ってほしい」という要請があったため、社長がなんとか数千缶を送りました。「中古でもいいから」という言葉がヒントでした。
その頃、とある自治体で、「新しい缶詰を買いたいから、古い缶詰を処分してほしい」と頼まれたのですが、その時は丁重にお断りしました。
社長が学生時代に、宣教師と供に東南アジアを歩いてまわったときに、ストリートチルドレンがお腹をすかしているのを見てきました。いろいろ調べると、世界では飢餓が多い。1分間で17名が飢餓で亡くなっている。そのうち10名は5歳未満の子供。一方、日本へ戻ると、パン屋の現場では、食品ロスという現実があります。なんとか組み合わせができないか。
そこで、2009年9月9日に、救缶鳥プロジェクトを始めた。(999は語呂合わせ)
実は、前から賞味期限が近い食品のリユースシステムをやっていて、いろんな自治体や団体に話をもっていったが、総論賛成/各論反対で、うまく進まみませんでした。「小ロットからご参画頂ければ救缶鳥も更に広がるのではないか?」と考え、ヤマト運輸へ「小ロットでやろう」と提案を行いました。その後メディアに取り上げてもらったりしたが、それでもなかなか広まりませんでした。
くしくも、救缶鳥が注目をあびたのは、3.11 の東日本大震災でした。栃木は震度6弱で、社屋がかなり揺れ、電気は通らず、てんてこ舞いになりました。ガスは切れていて、オーブンは使えましたが、なんとかガス会社を呼んで、応急処置で直してもらいました。
空き巣に注意と警察から言われていたため、警備のために、私が社屋に泊まっていたところ、朝2時、3時に、会社の中で足音が聞こえました。うちのパン職人が、12日の朝3時、4時に出勤してきた。結果的には90%の社員がきました。
3月はピークシーズンだった事もあり、約15,000缶の在庫が社内ありました。防衛省と連絡を取り合い、埼玉県朝霞市の駐屯地にもってきてほしいと言われ、そこからヘリコプターで運んだ先は、福島だった。
フル生産に入り、地元のガソリンスタンドの協力もあり、社員の通勤用、原料の運搬用のガソリンを確保してくれました。いまから作っても間に合わないので、救缶鳥を入れている顧客に連絡し、全国から救缶鳥が集まり始め、それを福島、宮城、岩手に届けました。
震災一週間後くらいに、某テレビ番組から連絡があり、「NGO団体が物資を運ぶ画を撮りたい」という相談があったので、夜中の2時頃にパンを積み込む作業を収録してもらいました。現場で、パンの缶詰の話をしたところ、翌日に「アキモトの取り組みを取材で取りあげたい」と相談がありました。現場はてんてこ舞いの状況だった為「取材は受けられない」と最初は断りました。それでも「なんとかお願いします」と頼まれ、テレビ局が泊まり込みで撮影に来て、同年4月12日に放映されました。栃木の田舎のパン屋が、お金がないのに、被災地支援をしているという内容で、恥ずかしかったです。
たしかに、資金ショート寸前だったが、「阪神淡路大震災の被災地の声から始めたプロジェクトなので、なんとか続けよう」という社長の声で続けていました。
放映翌日、会社に出勤すると、パン屋に行列が出来ていました。話を聞くと「パンを買いに来た」と。会社のメールをチェックしたら、500通以上もメールがきていて、応援の声が多くありました。お金を置いていこうとするお客が多かったが、最初はお断りしていました。なぜなら我々はNPOやNGO団体ではないので、お金を受け取れないからです。とある方から、「パンの缶詰が4000~5000缶ほしい」と言われ、提供できない状況を説明し、連絡先を聞こうとしたところ答えてくれません。そして、そのお客さんは、200万円ポンと置いて帰ろうとした。 理由を聞くと、「東北へ持っていてくれ」と言われました。実際に話を聞いてみると、大宮の住職の方で、檀家の方から集めたお金を赤十字に入れようと思ったが、このパン屋に入れよう、となったそうです。
メールの内容で一番多かったのは、口座番号を教えてほしいというものでした。タイやシンガポール、フランスのパン組合からも、口座の問い合わせがありました。そこで、役員と話し、「パンを作って、届けよう」と。アキモトが届けたパンを写真で撮り、NGOのWebにアップしてもらった。
約一週間後、合計で約1,000万円の支援が集まりました。その後毎週、被災地へパンや牛乳を持って社員も連れて行き、パンの缶詰を被災者の方々に手渡しで渡し、パンの缶詰がどう使われるかを見てもらいました。
当社が重視したのは、食料をもっていくだけではなく、顧客からのメッセージも届けることでした。(救缶鳥にはメッセージを書ける) 最初のうちは皆忙しいためか書いてくれず、社員が書いていたが、書ききれることができません。数が多いので、学校などに持って行くと皆書いてくれて、その後、高校生どおしで文通が始まることもありました。これが、救缶鳥の意義なんだなと思いました。
2017年に、環境省主催「第5回グッドライフアワード」に申請したら、アキモトの救缶鳥は環境大臣賞最優秀賞を受賞できました。翌2018年にサステナブル国際会議が、東京のヒルトンで開催されていて、環境省からは、メインテーマを救缶鳥にすると言われました。
サステナブル国際会議の後、エスワティニ(当時はスワジランド)に行ってきました。アフリカに行くのは初めてで、救缶鳥を子供たちに渡すと取り合いになります。子供たちの足元を見ると、裸足の子が多く、話を聞いてみると靴が買えないということでした。入学時に一足支給されてもすぐに足が大きくなるため、履けなくなってしまうそうです。一方、日本だと、履けなくなった靴やスパイクは、下駄箱で眠るか、すぐに捨てられてしまいます。
この状況について、製紙会社の北越コーポレーション株式会社の担当者に相談したところ、「連携をしていきましょう」という話になりました。南アフリカ、スワジランドから紙の原料のチップを輸入していて、現地に事務所があります。チップを載せて日本にきた船は帰りには空になります。その帰りの船に救缶鳥を載せられないかと、商船三井に相談したところ、担当者の方に了承いただき、スワジランドへの帰りのトラックにも、救缶鳥を載せて戻ってもらっています。
現地の子供たちは、日本のことすら知らないが、救缶鳥を機に、日本とアキモトのことを知ってほしいと思っています。
備蓄する企業が増えて、備蓄期間を過ぎれば、それを困っている世界に多く送ることができます。田舎のパン屋でも動けば、SDGsに参画できますし、中小企業も工夫すれば、日本の優しさは広まります。
買い手に、売り手にも、社会にも良い、「三方良し」の話を、学生に伝えたいです。
アキモトは、たまたまやっていたことが、SDGsでした。商売ですから利益を出さないといけないため、その辺のバランスは必要です。
クリスチャンの考え方からすると、「パンの神様からの導きがあった」かと思います。
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