もう一つの人材養成 -アンコール・ワットの「環境」を守った上智大学国際奉仕活動-
アジア人材養成研究センター所長 石澤良昭(上智大学教授)
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1.アンコール遺跡で増加する観光客とゴミの山
私たちがアンコール・ワット西参道の工事を開始してから8年目に、アンコール遺跡近隣にゴミが棄てられ環境の危機にさらされた。2019年にアンコール地域を訪れた観光客は約650万人を数えた。2000年頃からの観光客の急増に伴い、遺跡環境が劣化し、膨大なゴミ、車両排気による大気汚染、未処理下水による川の水質汚染、ホテルや駐車場建設による自然林の破壊、歴史景観の消滅など、深刻な問題が起こっていた。ユネスコなどからは、環境破壊の大きな懸念が示された。私たちは2003年5月から「上智大学学外共同研究プロジェクト」を現地で立ち上げ、アンコール遺跡環境保全のための「ISO14001」の認証取得に向けてアプサラ機構と協力し、約1,200名の全職員と実務者に対して環境保全の実務研修を3年間にわたり実施してきた。実務研修では、上智大学アジア人材養成研究センター、国際規格研究所、日本品質保証機構(JQA)が環境保全教育を担当し、ISO 取得マニュアルのテキスト(英語)をカンボジア語に翻訳し使用した。関係者全員が遺跡現場を廻り、さらに集落や中学校も訪問し、ゴミ・ゼロのコンクールを実施した。村の僧侶たちにも協力をお願いした。
取得のための準備期間は3年間、ISO の求める「環境マネジメント」とは何かを想定しながら、アプサラ機構、地域住民、関係者が一丸となって審査を受ける準備を行っていた。その結果、厳しい審査を経て、2006年3月「ISO14001認証」に合格し、晴れて認証を取得できたのである。そして、同年4月、アンコール ・ ワットにおいて認証式が行われた。遺跡入場証には「ISO14001」という文字が印字されている。数ある「世界遺産」のうち、ISO14001の取得は、アンコールが世界で初めてであり、ユネスコから高く評価された。これは上智大学のアンコール遺跡群の環境保全に対する大きな貢献である。取得後3年ごとの継続審査に合格し、現在に至っている(参照:『上智大学通信』第319号 2006年6月20日発行2面)。
2.再独立10年目、カンボジアは、環境危機に直面する
こうした悪化する環境問題をどのように解決に向けてどのような手を打つか、再独立10年を経たカンボジアには環境問題解決のノウハウを持ち合わせていなかった。またそうしたゴミの山の経験もこれまでなかった。カンボジア王国政府は、もちろんゴミ対策やトイレ整備に乗り出してたが、解決に向けて具体的目標やコンセプトが欠如していた(『朝日新聞』2004年9月26日付)。
上智大学アンコール遺跡国際調査団(ソフィア・ミッション、以下調査団)はちょうどその時、アンコール・ワット西参道の第1期修復工事(1996~2007年)の最中であり、遺跡内がゴミの山になっていくのを見過ごすわけにはいかなかった。そこで調査団は2003年5月に上智大学学外共同研究として「アンコール・ワット環境教育プロジェクト(Cambodia-Japan Project for the Angkor Environmental Management(ISO 14001))」を立ち上げ、救済に乗り出した。そして、(株)エス・ケイ・ケイ(前田勲男所長)の助言を得て、日本の(株)国際規格研究所(ISRI、宮本徹社長)、(財)日本品質保証機構(JQA、佐久間謙司理事長)、(株)品質保証総合研究所(JQAI、水野一彦社長)の3専門機関に協力をいただき、現地のカンボジア王国政府アンコール地域遺跡保存整備機構(以下アプサラ機構)とも協議に協議を重ねた。問題の根本的な解決は環境教育であり、環境問題を扱うことのできるカンボジア人の専門家の人材養成をするとの結論に達した。第1にアプサラ機構の担当官を再研修し、次にアンコール観光業者、そして地域住民というように組織ごとでプロジェクトを組み立てた。
3.第1歩は住民の環境教育から、ISO認証取得を準備する
協議の結果、環境問題を克服するために「国際標準化機構(ISO)」の14001(環境マネジメントシステム)の認証取得を目標に、アプサラ機構の専門家の養成、住民の人材養成とその訓練が重要であり、このやり方を採り入れ、危機解決の糸口を探ることにした。そして日本の3機関に環境教育の専門家派遣をお願いした。アプサラ機構の総裁の下に約300名の職員と技術員を環境管理チームに再編し、3年間で認証を取得する手順と目標を決め、環境保全の実務研修の第1歩を始めた。先ず最初に、ISO取得のためマニュアルの実習テキスト約100冊の環境問題専門書(英語)をかたっぱしからカンボジア語に訳出し、そのテキストの完成と同時に、日本の3機関から専門分野の講師・専門家の現地派遣を要請した。3機関からは専門家・コーディネーター約15名が派遣され、彼らが約1ヶ月から3ヶ月交代で住み込み、講義と研修がアンコール遺跡内で始まった。併せて現場の実務研修も実施した。3年間とはいえ莫大な派遣人件費が必要だった。アプサラ機構の職員たちは、自分の担当の業務の合間をみて、環境悪化問題の調査現場に出かけ、どのようにすれば解決できるか、村人たちと討論を重ねた。
4.学校にゴミ箱を設置し、環境コンクールの発表会
次に、研修を受けた職員が研修遺跡内の郡役場と村役場へ出かけ、環境問題を詳しく説明し、そして各集落に出かけ、村人たち説明し、協力を求めた。具体的には「何をするか」をテキストにそって指導改善の説明を繰り返し、環境現況調査、アプサラ機構のガードマンのトレーニング、僧侶や村の長老と環境問題について懇談、露台売り子さんへ出前講義、学校にゴミ箱の設置と学校内の環境コンクール、清掃会社の設立などを行った。しかしながら、村人にはこの環境悪化問題についてなかなか理解してもらえなかった。村人は外国の観光客が遺跡を汚していると非難した。試行錯誤の連続だった。そこで、先ず村の近くの遺跡内でごみ拾いの共同作業を実施し、一つの事例とした。それから近隣の小・中・高の学校へ出かけ、各校でISO基準のチェック項目を理解してもらうため、環境コンクールを実施。1等賞には賞品を与え、生徒や学生たちを啓発した。村の僧侶たちにも協力を仰ぎ、本堂に集まった村人達にISO環境問題事情をカンボジア語で説明した。悪戦苦闘の毎日だった。
2005年12月にはジュネーブの国際標準化機構本部(ISO)から査察団が訪れ、アプサラ機構、州政府から事情聴取を実施、現地の査察と追加改善の指示があった。緊張の連続だった。
申請から3年かかってやっと2006年3月に「ISO14001認証」の厳重な審査を経て取得することがでた。世界遺産を対象としたISO認証取得は世界で初めての取得であった。プサラ機構の人たちにとってゴミから遺跡を守る大きな自信ができた。遺跡入場チケットには自慢げにISO14001取得済みと印刷され、ここでも私たちが提唱したもう一つの人材養成 ”By the Cambodians for the Cambodians” が実現した。村人や関係者はやればできるというのか、自信のようなものを感じ得たようである。さらに、この認証取得はユネスコと国際社会から高く評価された。
5.センター研究員ラオ・キム・リァン氏の貢献
この「ISO 14001」(環境マネジメント)の取得プロジェクトにおいては、現在当センターの研究員で、元(財)日本品質保証機構の環境主幹ラオ・キム・リァンさん(東京工業大学大学院で博士号取得)の獅子粉塵の働きが大きく、祖国カンボジアへ出かけて環境の危機を救ったのである。ラオさんはもともとカンボジア国費留学生であったが、ポル・ポト時代に帰国することができず、日本国籍を取得した。1989年から始まる私たちの調査団活動では通訳として、現地に同行し、1991年から12年にわたりシェムリアップ川の汚水を採取し、汚染度を調査していた。ラオさんは地道ではありますが、環境悪化を示すデータを入手していたのである。このアンコール遺跡の環境危機を予め予測していた。ラオさんは何よりも最初に「ISO14001」の全テキストをカンボジア語に翻訳し、わかりやすくカンボジアの実情にあわせて加筆し、村の説明会ではいつもテキストを持参し説明していた。カンボジア語でその必要性を熱心に説明した。州政府の役場、各村役場、学校、寺院、村落の中へ出かけて、環境保全の重要性を訴えた。ラオさんには認証取得のために3年間現地に駐在し、環境教育プロジェクトを推進いただいた。
この「ISO14001」はカンボジア人のラオさんがいなければ取得できなかった。ラオさんは結果としてアンコール遺跡を環境危機から救済した。ラオさんはいつも裏方に徹して、認証取得に向け渾身の努力していた。ラオさんの祖国に対する貢献に心から敬意を表したい。
上智大学アジア人材養成研究センター
https://dept.sophia.ac.jp/is/angkor/